Yamatogawa Riv. II

Yamatogawa Riv. II

 

 

『Yamatogawa Riv. II』

大和川は奈良県笠置山地付近を源流とし、奈良盆地を放射状に流れる150本近くの支川と合流しながら一つの流れとなり生駒山系と葛城山系の間、亀の瀬渓谷を抜け大阪平野へと流れていく。

関西の一級河川の一つとしてごく普通の川ではあるが、かつては日本国の礎となるヤマト王権を支え、発展に寄与した国の最重要河川であった。

その県境エリアは大和への入り口であった為、特に経済や交通の要所であり水運だけでなく東高野街道や行幸にも利用された竜田道などがある。

多くの寺院が立ち並び、古墳群や製鉄コンビナートなど技術・文化が栄えた当時最先端都市でもあった。

古来より朝鮮半島との交流が盛んであり渡来人も多く移住していたこともそれらに深く関わっている。

高井田山古墳や横穴内の壁画などはその関係性が垣間見られ、大和川のスケールの大きさを感じさせるものである。

また松岳山古墳の石室等は四国産の石材が使用され、両側に穴のあいた板石が立つ稀有な古墳形態は倉敷市の楯築墳丘墓に似ている。

瀬戸内海を掌握し吉備の祭祀様式を畿内に取り入れた可能性をも示唆しており、出土品から百済にも交流を広げていた集団の墓だと考えられている。

国内での鉄生産は6〜7世紀頃でありそれ以前は朝鮮半島からの輸入に頼っていた。

しかしそれ以前より古くから葦に付着した鉄バクテリア由来の湖沼鉄による鉄生産が行われていたと私は考える。

古墳時代の大規模な鍛治工房であった大県遺跡の鉄滓の成分調査からも国内自給の鉄が確認されたこと、地形地質的観点から火山国で鉄分を多く含み、水量豊富な河川の多い日本国土の当時の湿地帯の広がりの想定、記紀神話の葦原中国の記述、焼成温度が野焼き程度でも可能であること等、痕跡が残っていないという理由だけで湖沼鉄の鉄生産を無視することは決してできない。

私にはそれによりさまざまな技術や産業の発展、文化の向上がもたらされたことが大地の恵でありこの国の豊かさそのもののように感じずにはいられない。

三郷付近で見られた鈍く輝く地面が、辺り一面に広がる光景を想像するとそれが日本の原風景の切れ端のように感じ、歴史の地続きの先に自分達がいることを改めて認知できた。

1704年、大和川には大きな転機となる歴史があった。

大阪平野に何度も洪水を起こしていたため、中甚兵衛を中心に付け替え運動が起こった。

石川との合流地点から北上し淀川と合流していた川を、西へ直進させるべく新たに川を掘る工事が進められた。

幕府の許可が下りるまでは長かったが、延長約14Km、延べ245万人を動員、費用140億円の大事業にも関わらずたった8ヶ月で竣工した。

旧大和川の地域は新田開発が行われ、生産された河内木綿は特産物となっていった。

新大和川となった堺方面への川の眺めは実に美しい夕景を見せてくれているが、それが過去には存在しなかった姿であり、それ以前の犠牲となった農村の姿が重なるように想像できる特別な場所である。

また古代豪族である物部氏と蘇我氏の初戦があった場所でもあり、これは決して単なる宗教観の争いではなくその後の国の在り方を決定づけていく重要な戦であった。

物部氏が頑なに守ろうとしたものが何であったのか、歴史の裏に隠されたとされる物部氏にはそのルーツなど多くの謎があり様々な憶測がなされている。

ヤマト王権ができる以前より畿内の有力者であったとされ、古墳〜奈良時代にかけて大和川あるいは奈良において最も関係の深い氏族である。

研究者の中には松岳山古墳が物部氏族のものとする見方もある程であり、王族に匹敵する強大な存在、もしくは実権を握り実際に国づくりをしていたのが彼らだった可能性も十分に考えられる。

県境の亀の瀬渓谷は約4万年前から地すべりが頻発した難所であり、峠や山間の雰囲気も重なりその畏怖から古代より「かしこの坂」と呼ばれていた。

明治以前の資料は残っていないが、明治36年、昭和6〜8年、昭和42年と大きな地すべりによる甚大な被害が記録されている。

河床が隆起し、堤防の決壊、トンネルの崩壊、上流部の浸水などが発生し、道路や鉄道は不通となった。

田畑には亀裂や水没が起こり、家屋も倒壊、地域の人々は生活の全てを失うほどであった。

仮に現在地すべりが発生し大和川が閉塞した場合、奈良側では浸水被害面積約600ha、4700世帯以上、大阪平野側へ閉塞が決壊した際には約5400ha、18万世帯以上の氾濫被害となり、その被害総額は4.4兆円になると試算されている。

この地すべりを鎮静化するため、昭和35年から調査を開始し平成23年に主な対策工事が完成している。

大別すると、土を取り除き水を集め川へ流すことで地すべり運動を停止・緩和させる抑制工と、杭で土を止め抵抗力によってその運動を止める抑止工とがある。

取り除いた土は約92万m3であり、54基の集水井と約153kmに及ぶ集水管、全長約7.2kmの排水トンネル、世界最大規模である太さ6.5m長さ100mの深楚工55基を含む全170基、ここには世界に誇る地すべり対策技術が施され、さらに24時間集中監視システムでこの亀の瀬を守っている。

川中には亀の瀬の由来となる亀石があるが、幾度の地すべりにも動じず存在していることで人々から神聖視され、役行者ゆかりの聖地葛城修験の最終地として信仰の対象にもなっている。

江戸時代にはこの石により船の通行が困難であったため河内側は剣先船、大和側は魚簗船が航行し、積荷はここで一旦陸揚げされそれぞれの船に積みかえ運ばれていた。新亀の瀬橋の下は船着場のその名残のように感じられる川岸の景色である。

向かいの明神山は大和川守護の水神を祭祀しており、頂上からはこの亀の瀬一帯を眼下に見渡すことができる。

送迎道としても使われ江戸時代にはここを参拝し伊勢へ向かうルートが流行した。

当時、絶景スポットとして大勢の人で賑わった歴史があるが今も登山者が多く訪れ、時代が巡り変わっても変わらない何かがあることを感じられる。

旧国名で言えば10カ国を眺めることができるほどのパノラマであり、奈良時代には平城京が輝いて見えていた。

瀬戸内海や飛鳥をも見渡せる明神山は、大和川を挟んで北側に存在した高安城と同じく唐や新羅の侵攻に備えるため都を守る要塞としての役割があったのではと考えられている。

現在まで人々は様々な形で大和川を活用してきたが、流域の人口増加に伴い汚れが増え続け、かつては日本一汚い川と呼ばれ一級河川の中で水質は最も悪かった。

生活排水の見直しやごみの清掃など地域住民の努力や国土交通省による河川整備や水質監視システム、川の自浄作用を活かした浄化施設により少しずつ改善がなされ、多様な生物が生息できるまでになり自然にも優しい川へと変わっている。

川沿いを歩くと心地よい川の流れや子供の遊ぶ姿、鳥の鳴き声が聞こえ、長閑な空気を漂わせている。

人生に悩みながら釣りをする若者、日曜大工に勤しむ親子、畑で孫の話をしながら時折見える寂しそうな表情も大和川やこの土地の記憶として見ていたい。

長い時の中では目を背けたくなるような暗い事実もある。

離れた土地で凶悪な事件に巻き込まれ、何の因果か大和川沿いの竹林に遺棄され幼くして亡くなった少年がいたことも私は忘れたくない。

川の歴史は人の歴史でもある。

私たちが過去について知ることができるのは、専門家の地道な調査や綿密な研究と論理的推察、先入観にとらわれない想像力により歴史は紐解かれ、またそれを伝える努力があったからこそである。

伝承や歴史書、伝記も含めいつの時代にも語り部はなくてはならない存在だ。

過去を学び、遺跡に触れると死者とも繋がっているような感覚になり様々な境界を越えて、まるで川の記憶のようにあらゆるイメージが脳裏に浮かんでくる。

だが、これから先の未来にはイメージだけではなく事実としての大和川の記憶も残していきたい。

歴史には残らない歴史の写真が、それらが数十年後、数百年後にはもう一つの語り部となっていることを信じて私は上流への旅を続けている。

 

-2023-